死ぬと思った
知らない本を知るたびに本って増えるので、わたしのなかで日々増殖中、買ってからずいぶん経ってまだひらいたことのない本が家にはあふれているけれど、とくに雑誌って買ったら安心してしまいがち。今日マチ子特集の『ユリイカ』(2013年8月号)をやっとひらいたら、宿久理花子さんの詩が載っていて、あら、と思う。宿久さんは、わたしがかよっている学科の卒業生で、何度かお会いしたこともある。
いっかいあの人が傘もささずに
帰っ
てきた
ことがあってその日の朝に
数値うんぬんに癪やけど従って傘を
持たせたのに風邪を引かせん為だったのに
ばっちり濡れに濡れて帰ってきたことがあってえ何何何よと訊いてもまああれ
……あの……が全部で単語三こしかくれなくてそういうあいだも
髪やら何やら雫がたれてて朝になった
なったら抜け
目なく風邪になっていて鞄調べた
ら きれいにたたまれたまま傘を見えて死ぬと思った
宿久さんの詩を読むのはそういえばはじめてだったわけですけど、端的にいって好きですね。これは一部ですけれど、うわーん。死ぬと思った。死ぬと思った。ってくちのなかでずっとつぶやいていた、死ぬと思った。
わたくし詩っていうとなんかちょっと嫌悪というか軽蔑というか、感じてしまいがちなんだけど、あの寄りそってくる感が苦手で、きれいなところから生まれました感が、嫌いで、あんまりっていうかほとんど読んだことなくて、それって詩を書こうとしている人間として間違ってるよねってわかってるけど寄りそってくるんやものあいつら! といつも思っていたけれど、ああ、わたしが知らなかっただけでこういう詩がやっぱりちゃんとあるのやなとからだで知ることができたので、谷崎由依さんがツイートしていた最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』を買ってみた、正直ちょっとびびってた、けど、ああ、もう、
引用した宿久さんの詩のタイトルは「全国的に」。鎖骨のちょっとうえらへんが痺れてね。ぞく、としたよ。死ぬと思った、よ
21歳
あんまり誕生日とか得意じゃないんですけど、やっぱり「おめでとう」をもらうとうれしいし、ニコニコしてしまうし、いいなあと思いますね。
わたしはFacebookの通知機能ほどうっとうしいものはないなとつねづね思っているのですけど、あの誕生日をいちいち知らせてくる感じ、なんなんですかね。あれ、いる?ぜんぜんなかよくない、っていうかもはやしゃべったこともないけどおなじ学校にいたと思う、たぶん。みたいなひとの誕生日まで知らせてくるじゃないですか。ウルセーッ!となるんですけれども、今日はそのおかげでとてもなつかしい、とてもうれしいひとから「おめでとう」をもらって、ああ、こういうことがあるなら案外この機能も悪くないのかもしれないな、と果物がたくさん盛りつけられたケーキをもしゃもしゃ食べながら思ったしだいであります。なはんて。また都合のいいこといってら。
21歳ってなんかいいですよね。べつにそんなことないか。まあ奇数やし、悪くないなと思います。なににたいしても、だれにたいしても、あんまり期待しなくなってから(期待しない、といういいかたは好きじゃないのでべつのいいかたをさがしているけれど、これまだみつからず。うーむ)ずいぶん生きやすくなって、たとえば17歳になったとき。たぶんわたしは「ああ17歳になってしまった、17年も生きてきたのにろくになにもしていない、だめだ」などとぶつぶついって自己嫌悪、あるいは「あれをしなければ」「こうならねば」と抱負めいたものにあふれて埋もれて身動きとれず、みたいになっているあほうであったような気がするけれど、これ、期待しなくなったらなにを思うかというと、まあ21歳も生きましょう、くらいのことしか思わない。これはずいぶんらくなので、生きているひとにはおすすめ。
わたしはどうしてもやっぱり自分のことはあんまり好きになれん、でも9月生まれであるというところだけは、ちょっと、好きやわ。
それにしても、9月生まれってなんか多くないですか?気のせいかしら。
新しいものも確かにあって
昔を思ってみてください。吐き気がするほど楽しいではないか。楽ではないか。生きているではないか。昔も一応、生きてたけども(川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』より「午前四時」)
けっきょく。変わってゆくのはいつだって環境ばかりでわたしはなにも変わっていないのかもしれない。いま偶然(必然でもいいけど)ここにいて、そこにいるひとがいて、それがわたしにぴったり合っている、あるいは合わせやすいというだけで、わたしはいいように変わったと錯覚してしまっているのかもしれない。あの頃は環境にからだを合わせられなかったというだけで世界はひどいと思い込んでいただけなのかもしれない。や、べつにどっちでもいいんですけど、なんやろね、この、うっとりできない感じ。気づかないほうがしあわせでいられることはたくさんあるけど。けど?
いまだに思いだす、きみの、朝の、や、朝じゃなかったけど、朝みたいな、ちょうど1年くらいまえ、ぜんぶを受け入れられて、見放されたようなわたしをあざやかに突き放す、そこにはため息も呆れ顔も悲しい笑いもなかった、最高に最高の、一回を、思いだす。空気のような期待と、めまぐるしくまわりつづけている時計と、夏。
5月、まるくは留まってくれない
書かなければいけない文章や、読まなければいけない本のことを考えながら、しかしいいまわたしはとてもねむい。文字が目に入らない。綿を詰められたみたいに頭がぼんやり重たい。とても正しい文章を読んだから、自分で思ってるよりも体力を使っていたのかもしれない。
絶対的に賛成や共感はできないのに、わかるよ。みたいなことってどうしたらいいんでしょう。